ケンタッキー・フライドチキンの歴史

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 〔ケンタッキー・フライドチキン〕

 誰もが一度は口にしたことがあるのではないだろうか?

 ハーブとスパイスの絶妙な組み合わせで味付けされたチキンは、創業から60年以上経った今も皆に愛され続けている。

 その創業者もまた誰もが知る人物だ。そう、カーネル・サンダースである。

 ちなみにカーネル・サンダースのカーネルは名前ではなく名誉称号であり、本名はハーランド・デーヴィッド・サンダースである。

 今回はカーネル・サンダースが築き上げたケンタッキー・フライドチキンの歴史について解説する。

カーネル・サンダース の生い立ち

 1890年、インディアナ州でハーランド・デーヴィッド・サンダースは生まれた。

 幼い頃に父親を亡くした彼は決して裕福とは言えない生活を送っており、母親は家計を支えるために工場で働いていた。

 そんな母親を支えるためにサンダースは6歳の時に料理を始める。7歳の時に自身で焼いたパンが家族に絶賛され、「自分は料理をすることが好きなんだ」と気がつく。

 そしてその時の感動が「おいしいもので人を幸せにしたい」という後のケンタッキー・フライドチキンの理念へと受け継がれていくのである。

 彼自身も10歳の時に近所の農場へ働きに出るのだが仕事は長続きせず、すぐに解雇された。

 また、12歳の時に母親が再婚するのだが、義父と合わず家を出ている。

 家を出た後に年齢を偽り軍隊へ入隊するもすぐに除隊する。

 その後も鉄道関係の仕事、保険の外交員、弁護士と様々の職場を転々としていた。

経営者への第一歩

 サンダースは自分が誰かに雇われるということに向いていないと思い経営についても考え始めた。

 その第一歩と言えるのが1912年、彼が22歳の時にフェリーの経営に共同経営であるが参加することから始まっている。

 これはオールド・アスマ号と名付けられたフェリーボートをインディアナ州のジェファーソンビルからオハイオ川を越えてケンタッキー州のルイビルまで往復させるという事業で、結果的にこの事業は成功を収めた。

 しかしサンダースは事業が本格的に軌道に乗る前に経営から手を引き、商工会議所で秘書の仕事を始めていた。

 さらに商工会議所の仕事を約1年で辞め、ランプの製造販売も始めたがすぐに失敗する。

 その後もミシュランタイヤのセールスマンを始めたが、ニュージャージーにあった工場の閉鎖により解雇されている。

 ここまでわかっているだけで様々な仕事を転々としており、とても成功者とは言えず、今を生きるのが精いっぱいといったサンダースであったが、最後のミシュランタイヤのセールスマンをクビになったことが大きな転換点となった。

 タイヤのセールスマンをしていた頃に知り合った石油代理店の支配人に勧められ、ガソリンスタンドで独立することになったのである。

 サンダースがガソリンスタンドの経営を始めた頃、ヘンリー・フォードが低価格の大衆向け乗用車を販売し、それによって今まで「金持ちの玩具」として考えられていた乗用車が急速に普及していた。

 そうした時代の流れに加え、サンダースの徹底したサービスが人気を呼んだことにより、彼のガソリンスタンドは繁盛していったのである。

サンダース・カフェの始まり

 経営者として順調にスタートを切ったかに見えたサンダースであったが、この数年後に彼はこれまでの人生で最大の困難に遭遇することになる。

 「暗黒の木曜日」である。

 「暗黒の木曜日」とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価の大暴落が起きた日のことであり、その後の「世界恐慌」のきっかけとなった日とも言われている。

 これによる大恐慌の波は例外なくサンダースにも襲い掛かかり、結果として彼はガソリンスタンドを手放すことになったのである。

 しかし1930年6月サンダースはガソリンスタンドを手放してからわずか1年で新たなガソリンスタンドの経営を再開することが出来た。

 ガソリンスタンドのシェルオイルがサンダースに対して新しく建てる予定のガソリンスタンドの経営の話を持ち掛け、サンダースは資金なしでガソリンスタンドの経営を再開することができたのである。

 さて、経営を再開してしばらく経ったある日のこと、サンダースは旅行客の多くがお腹を空かせてガソリンスタンドにやってきていることに気が付いた。

 常に顧客に喜んでもらえるようなサービスを心がけていたサンダースは、物置として使っていた小さな部屋に家で使っていた机とテーブルと6つの椅子を置き食事の提供を始めた。

 こうしてケンタッキー・フライドチキンの前身ともいえる「サンダース・カフェ」が誕生したのである。

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 サンダース・カフェではフライドチキンの他、ハム、豆、ビスケット等、割とシンプルでどこにでもあるような料理を提供していた。サンダースにとって「サンダース・カフェ」はサイドビジネスであったが、どんな料理も美味しさにこだわり、店内も常に清潔に保つことを心がけていた。

 こうした徹底したサービスの提供を続けたことでサンダース・カフェは旅行者の間で人気になり、その人気は旅行者の間で「サンダース・カフェに寄らずに旅は終わらない」という言葉が生まれた程だった。

 また、この頃にはすっかり地元では有名人になっていた。1935年、彼が45歳の時にケンタッキー州知事より「カーネル」の称号を与えられた。

 こうして彼はカーネル・ハーランド・デーヴィッド・サンダースとなり、この頃から私たちが知っているカーネル・サンダースと呼ばれるようになったのである。

 サンダース・カフェが成功し、次に「旅行者は泊まれる場所を求めている」と考え、モーテルの営業も始めた。

 彼はモーテルのサービスや清潔感についても徹底しており、従業員は「モーテルだけど、サービスや雰囲気はヒルトンホテルに負けていなかった」と語っている。

 また、この頃サンダース・カフェで人気であったフライドチキンをさらに美味しくするためにスパイスの調合・改良等を繰り返し行い、11種類のハーブとスパイスを混ぜたイレブンスパイスと圧力鍋を活用した現在のケンタッキー・フライドチキンの味を完成させたのである。

 レストラン・モーテルの焼失

 顧客が増え順調に売り上げを伸ばしていたカーネル・サンダースであったが、またもやその全てを失う程の災難に遭遇することになる。

 それは1939年、カーネル・サンダースが49歳の時である。10年以上の歳月をかけて築き上げたサンダース・カフェとモーテルで火災が起こったのだ。

 彼はこの火事によって一夜にしてこの両方を失ったのである。

 幾度となく襲ってきた災難であったが、彼はこの時ばかりは「もうレストランはやめよう」と思ったという。

 しかしサンダース・カフェを失った彼だったが、サンダース・カフェを慕ってくれる多くのファンが残っていることに気が付くのだ。

 彼は1941年に再び「サンダース・カフェ」を再びオープンさせる。しかも彼は1店舗で142席もある大型のレストランを作ったのである。

 サンダース・カフェを再開させて15年間、彼は店を繁盛させたことは言うまでもない。

 あまりの繁盛ぶりが噂になり、彼の店を16万4000ドルで買い取りたいという人まで現れた。

 この時彼の年齢は60歳を超えており、いつ引退してもおかしくない年齢であったが、彼は何度も申し入れを断っている。

レストランの廃業

 さて、1950年代になると第二次世界大戦が終わり、アメリカには活気が戻り、とても華やかな時代を迎えていた。

 そして、この時代のアメリカはあらゆるものが近代化していく。その一つがハイウェイだ。

 当時の大統領アイゼンハワーは国中にハイウェイを建設する計画を立てた。

 この計画はケンタッキー州でも例外なく進められた。サンダース・カフェは国道25号線沿いにあったのだが、この国道25号線の迂回路が建設されたのである。

 この計画はケンタッキー州でも例外なく進められた。サンダース・カフェは国道25号線沿いにあったのだが、この国道25号線の迂回路が建設されたのである。

 そしてこの迂回路が出来て1年も経たぬうちに国道25号線に変わるハイウェイの建設計画が発表された。

 迂回路が建設されて店の売上が激減し、ハイウェイが建設されるとなるとどのような結果になるかは目に見えていただろう。

 この時カーネル・サンダースは65歳を超えていた。

 そのため、また新しい店を作り1から始めるということは難しいということもわかっていたであろう。

 そしてカーネル・サンダースは25年間で作り上げた店を売却し、年金生活で余生を過ごすことを決めたのである。

フライドチキンへの最後の挑戦

 さて、年金生活を送ることを決めたカーネル・サンダースであったが、結局またフライドチキンの仕事を始めることになる。

 その理由であるが、カーネル・サンダースは年金生活を送るため自分の年金がいくらもらえるのかを調べたところ、なんと月105ドルしかないことが分かったのである。

 今まで滞ることなく年金を支払い続けていたカーネル・サンダースは、潤沢な年金支給額が確保されていると思っていただけに愕然としたという。

 このままでは老後の生活が心もとないと感じ仕事を続けることを考えたが、もう自分の年齢を考えると店をまた作るというのは難しいことはわかっていた。

 カーネル・サンダースはしばらく考えた後、あることを思いつく。

 店を持たずに自分のフライドチキンの作り方を他の店に売れば良いと考えたのである。

ケンタッキー・フライドチキンの誕生

 カーネル・サンダースはこのビジネスについてピート・ハーマンという人にその話を持ち掛けることにした。

 ピート・ハーマンとは1951年にシカゴで開催された全米レストラン協会の講習会で出会った人で、サンダースと同じようにレストランの経営をしていた人物である。

 久々に会った友人に対し彼はフライドチキンを振舞った。

 これを食べたピート・ハーマンはとても喜び皿に盛ったチキンをきれいに平らげた。

 そしてこのチキンの名前を「ケンタッキー・フライドチキン」にしようとピート・ハーマンはサンダースに提案し、カーネル・サンダースもこれを大変気に入った。

 彼ならこのフライドチキンビジネスに興味を持ってくれるだろうと思い、この後サンダースはピート・ハーマンにフライドチキンビジネスの話をした。

 しかし、この日ピート・ハーマンが首を縦に振ることはなかった。

 それから2週間が経ち、ピート・ハーマンから返事を貰えていなかったカーネル・サンダースはもう一度説得するために彼の店へと向かった。

 移動中の路面電車からピートのレストランを見つけた時、2週間前と彼のレストランが変わっていることに気が付いた。

 彼の店に赤いペンキを使いとても大きな字で「Kentucky Fried Chicken」と書かれていたのである。

 カーネル・サンダースとピートは再開するとチキン1ピースについて4セント支払うというフランチャイズ契約を結ぶことになる。

 そしてこれがカーネル・サンダースにとって第一号の契約となったのである。

ケンタッキー・フライドチキンの拡大

 この後サンダースはケンタッキー・フライドチキンを拡大するために中古のフォード車に圧力釜とスパイスを詰め込み旅に出ることにした。

 サンダースは良さそうな店を見つけては直接オーナーに自分のフライドチキンをメニューに載せてもらうよう交渉した。

 時には自分でフライドチキンを調理し試食してもらうなど試行錯誤を繰り返した。

 しかしそんなカーネル・サンダースの努力もなかなか実らず、首を縦に振るオーナーは殆どいなかった。

 一説には契約を断られた回数は1009回となったとも言われているが、70歳近いサンダースは諦めることなく交渉を続けた。

 そんなカーネル・サンダースが考案したビジネスは簡単ではなかったが、1年間でなんとか7件のレストランとフランチャイズ契約を結ぶことができた。

 その後フランチャイズ契約が増えることで彼のビジネスの評判は高まり、やがてカーネル・サンダースが訪問しなくても向こうから問い合わせが来るようになった。

 こうして65歳から始めたフランチャイズビジネスはわずか4年で約200店舗の契約を結ぶことができた。

 そしてこの頃からフライドチキンのお持ち帰り店ができ、オペレーションマニュアルが作成され、どこでも同じ味が手軽に楽しめる今のファーストフード店に近くなっていくのである。

フランチャイズビジネスの売却

 1963年には店舗数も急激に拡大し、600店舗を超えていた。

 カーネル・サンダースが74歳の頃、急拡大する自分のビジネスを見て「これ以上自分の手に負えない」と考えるようになった。

 また、周りからの説得もありカーネル・サンダースは一生懸命築き上げてきたケンタッキー・フライドチキンを後にケンタッキー州知事となるジョン・ブラウン・ジュニアに売却することに決めた。

 この時の売却の条件は売却額が200万ドル、また彼の一生涯の報酬として年間4万ドルと今後も彼がビジネスに関わっていくことを約束するという内容であった。

 こうして彼が努力を重ね作り上げたケンタッキー・フライドチキンは彼の元を離れていくのである。

ケンタッキー・フライドチキンとカーネル・サンダースのその後

 彼は経営権を渡した後もケンタッキー・フライドチキンの顔として世界中を飛び回った。

 日本にも3度足を運んでいる。

 彼は90歳で生涯を終えるまで自分が愛したケンタッキー・フライドチキンを世界中のファンに届け続けたのである。

 さて、その後のケンタッキー・フライドチキンであるが、1986年にペプシコーラ等で知られるペプシコが買収することになる。

 そして1997年8月にペプシコは自社のレストラン部門を「トライコン・グローバル・レストランズ」としてスピンオフ(会社を分離新設すること)させ、2002年名称を「ヤム・ブランズ(YUM)」に変更し現在に至る。

 また、現在ケンタッキー・フライドチキンは2019年2Q時点で店舗数を23,118まで伸ばしている。

最後に

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 決して順風満帆とは言えなかったカーネル・サンダースであるが、彼が人生をかけて完成させたフライドチキンは多くの人に幸せをもたらしてくれた。

 今日はカーネル・サンダースが人生をかけて作り上げたフライドチキンを食べにケンタッキー・フライドチキンへ出かけてみてはいかがだろうか?

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